半世紀前の彦根付近の昆虫相を復元する試み

宮田 彬

 

私は彦根市出身で、今から5060年前は彦根市立西中学校、滋賀県立彦根東高等学校普通科の生徒であった。高校に入学後、初めてツベルクリン反応が陽転し、さらに結核の初期症状が出たので休学した。大学に進学した時は高校に一緒に入学した学友の早い人はすでに大学4年生であった。

その頃住んでいた彦根市石ヶ埼町の家は大きな屋敷で広い庭と畑があった。その家に私が小学校4年の時移り、多分、その後78年住んだと思う。石ヶ埼の家にまつわる不幸な因縁話は「九重昆虫記」第4巻424425ページに書いた。しかし、もしその家に住むことがなかったら、私は昆虫学を専攻していなかったかもしれないと思う。なぜなら子供の頃から昆虫に興味を持ち、毎日のように彦根城に出かけて虫を観察しまた採集して標本も作っていたが、その家の畑や庭には驚くほど多くの昆虫が見られたので、外に出なくても観察することが一杯あった。特に能楽師範の父が稽古場にしていた廊下に囲まれて2面がL字状に庭に面した10畳の間は、初夏から秋にかけていつも開けっ放しになっていたので、大きな種から微小なものまで数多くのハチが侵入し、なかにはそこで営巣する種もあった。病気療養中、家に居ながら生き生きと活動する様々な虫をじっくり眺めることができたことは、同級生に遅れをとって失意のどん底にあった私にとって最大の慰めであった。私は見かけた昆虫を1種につき2-3個体採集し、標本を作り名前を調べた。

学校の勉強はまったくしなかったが、月刊雑誌「新昆虫」と「遺伝」を毎月読み、さらにファーブル昆虫記の他にもオパーリンの「生命の起源」、ラマルクの「動物哲学」、ダーゥインの「種の起源」などを愛読し、将来、生物学を専攻したいと考えるようになった。病気をしたせいかもしれないが、生と死について深く考えるようになり、ファーブルと違いその頃から昆虫にも心があると考えていたから、生き物を殺すことが嫌なので標本数は研究に必要最小限の数に留めた。

琵琶湖博物館に納められた私の昆虫標本は、日本産が30350点でそのうち20666点は大分県特に九重山系産である。少年時代に採集した滋賀県産は1802点残っていた。そのうち自宅の庭や畑で採集したことを意味するIshigasakiのラベルがついた標本は406点あった。ちなみに中学・高校は彦根城の外堀と内堀の間にあったから、通学にも折りたたみ式の網を持っていて毎日のように遠回りして城山を通って帰った。だからおそらくHikonejyoShiroyamaのラベルがついた標本が一番多いだろうと思っていたが、243点で自宅の庭より相当少なかった。また2~3度訪れた大好きな場所の一つ彦根市Bunacho産は253点、Toriimoto産は64点残っていた。学生時代に数回夜間採集にでかけた醒ヶ井の奥にある榑ヶ畑(Kuregahata)産は438点あった。なお夜間採集は木立を利用して白い幕を張り、その前でアセチレンランプをつけて幕に飛来する昆虫を採集する方法だ。寝袋を用意していたが、いつも朝まで採集し夜が明けてから眠った。Bunacho, Kuregahataの他にOkisato村でも夜間採集を行なった。それらの地域の目録に蛾が多いのは灯火に最も多く飛来する昆虫は蛾だからだ。

石ヶ埼町産昆虫標本の中には、その後の長い虫との付き合いでも決して再会できなかったハチの種が多い。子供の頃の観察眼は今の私よりもよほどすぐれていたに違いない。

中学2年生(昭和26年)の時、1年下の河井二郎君と連名で発表した「彦根付近の昆虫」が科学研究発表会彦根大会で1等賞になった。またそれは同じ年の滋賀県大会で3等賞になった。その研究は100種ほどの虫がどんなところに出現するかを観察してそれぞれの虫の分布をプロットしたものだ。その頃から私は昆虫が何をしているのか観察するのが好きだった。特に幼虫を見つけると必ず飼育した。いわゆる珍しい虫にはあまり興味がなかった。なぜなら珍種ほど個体数が少ないからじっくりと何度も観察できないので面白くないのだ。だから中学3年生の時、第1回彦根市内小中学校生徒科学作品展覧会で私の昆虫標本が「まことに優秀」だと特選を頂いたのは不思議だった。私の子供の頃は中学校で卒業時に成績優秀者に優等賞を出していた。昆虫に熱中して成績は決して優秀とは言えなかったが、なぜか一つ格下の理科の技能賞をいただいた。

多数の標本を作るようになったのは定年退官し、大分県九重町地蔵原に九重自然史研究所を作ってそこで研究を始めてからだ。研究所を作った第一の目的は温暖化が昆虫相に及ぼす影響を調べることであった。その地点は九重山系の涌蓋山の山腹海抜900mほどに位置し、植物学的には冷温帯落葉樹林の下縁で、暖温帯落葉樹林の上限近い場所であったから冷温帯系の昆虫が遺存していた。冷温帯系の昆虫は大分県ではかなり高度の低い場所でも採れる。たとえば由布市庄内町の黒岳荘付近もその一つだ。まるで彼らは生き延びるために必死で活路を低地に向かって切り開いているかのようだ。もしこれ以上温暖化が進行すれば九州の冷温帯系の昆虫は逃げ場を失い絶滅する恐れがある。私は東京教育大学(現筑波大学)が長野県菅平高原に持っている研究施設で卒業論文を作ったので、冷温帯系の昆虫に特に興味を持っていた。地蔵原が菅平に似ていたこともそこに本拠九重自然史研究所を置いた理由だ。

そのころ私は温暖化の進行を測る指標として1地点ですべての目の昆虫を徹底的に集めた標本を残すべきだと考えた。20年後あるいは50年後、地蔵原で私がいくつも標本を残した普通種のうち、まったく見られなくなった種はどのぐらいの割合を占めるだろうか。また私が見たことのない新しく侵入し普通に見られるようになった種はどのぐらいいるだろうか。つまり私は未来の研究者に一つ宿題を出したのだ。日本でも長期間にわたって1か所の昆虫相を徹底的に調べて標本を残す試みを、今のうちからあちこちでやっておくべきだと思う。

 

1.50年前の標本が残っている彦根附近の昆虫は876

半世紀前に私が採集した滋賀県産の昆虫標本は、滋賀県立琵琶湖博物館に1802 個体残っており、それらは876種の昆虫が含まれていた。残っていた標本で最も古いものは1952年の採集であった。つまり私の中学生時代の標本はほとんど残っていなかった。

昔の昆虫針は短かく、しかも鉄分を含んでいるので赤錆びが出るから、私は同じ種の新しい標本を新規格のステンレス製の長い針を使って作成するたびに短い針で刺した古い標本を廃棄したらしい。残っていた彦根付近の昆虫標本の大部分は1952年から1962年の10年間に採集したものだ。なお昔使った一部のステンレス製と称する針は製品の質が粗悪で中には緑青が出て、その部分で折れたことがあった。

父母が彦根市石ヶ埼町の家から町の家に引っ越しした際、残っていた標本箱をすべて奈良市の下宿に送ってくれた。その頃、私は長浜の親友日比裕泰君が同地の業者に製作させた紙製標本箱を使っていたが、学生時代に少しずつ京都の池永製の木製標本箱に変え彦根産標本もそれに移した。奈良から長崎に移転した時は約80箱の木製標本箱(ドイツ型の中型)を送った。さらに大分に転勤する時はおそらくその二倍ぐらいに増えていた。彦根産標本の大部分は池永製標本箱に入ったまま、度重なる引っ越しや長い海外生活の間十分管理できないまま50年という長い年月放置してしまった。大分では主に昆虫を研究したので、赴任直後に残っていた彦根産標本のデータを他の産地のものと一緒にファイルメーカーで記録した。しかし大分時代の後半はまた長い海外生活が続き、やっと帰国すると校務が多くなり、古い彦根産標本のことはすっかり忘れてしまった。ファイルメーカーのファイルは残っているが、あまりにも古いので今使っているマイコンのファイルメーカーでは開けることができない。もしそれを読むことができれば、その時点で残っていた彦根産標本の全貌が判明しさらに資料が増えると思う。

 

2.既発表の彦根産昆虫について

 私は学生時代に彦根附近で採集した蛾の目録を名古屋昆虫同好会の佳香蝶に下に示すように2回に分けて発表した。また長崎に移ってから追加の[III]を書いた。それらは合計613種の蛾が含まれていた。今回そのうち約100種は標

本が残っていなかった。つまり奈良⇒長崎⇒大分⇒草津と半世紀にわたる移動で標本の六分の一が失われたことになる。

 50年前の彦根附近の昆虫相を解明する手がかりとしてここに示した目録の95%は、私自身が当時採集したものと、他の人の採集品に基づく記録は実際にその標本を確認したものである。残る数%は他県に住んでいた時もたまたま滋賀県に立ち寄った際に採集した新しい年代の標本である。

目録の記載は次の三つにわけた。つまり①実際に残っていた標本876種(採集地をローマ字で示す)②標本は残っていなかったが記録が残っているもの(採集地名を漢字で表記)、③標本も記録も残っていないが採集したことが、しっかりと記憶に残っている種を加えた合計1043種をこの目録に含めた。

宮田 彬(1960)彦根附近の蛾[I]、佳香蝶(名古屋昆虫同好会誌)12 (44) 123-142.

宮田 彬(1961)彦根附近の蛾[II]、佳香蝶(名古屋昆虫同好会誌)13 (47) 145-173.

宮田 彬(1967)彦根付近の蛾[III]、佳香蝶(名古屋昆虫同好会誌)19 (70) 61-72.

 

 

3.同定について

 私は2013年5月から琵琶湖博物館で私が寄贈した標本を整理し1点1点登録する作業を続けている。すでに日本産のデータ入力は終わっているので、今回彦根附近産が抽出できた。これは県名Shigaで検索したのだが、調べると間違って長崎県や大分県産がごく少数混じっていた。入力時に県名を入力間違いしたのである。したがって今後も他県名の標本から本来Shigaと入力するべきだった標本が約10点ぐらい見つかる可能性がある。

「九重昆虫記」の里九重町地蔵原産だけでも4000種近くの昆虫が含まれていると思われ、入力時にそれらをすべて正しく同定することはできない。入力時にすでに標本に同定ラベルがついていた場合は、それが正しいかどうか吟味せずそのまま入力した。つまりすべての目を含むので、現段階ではどの目も仮同定である。しかし入力に当たって他の標本と区別する名前あるいは符牒により小分けする必要があるので何らかの名前をつけ登録した。

モノグラフつくりや新種の記載などのため、九重山系の標本について早く知りたい方には、現段階では個々の種について学名あるいは和名で私に照会して下されば、その種あるいはそれと似た種の標本があるかどうかお答えできると思う。またすでに標本は目および科別に整理して標本箱に入っているので来館して調べたい方は、調べたい希望の科を事前に八尋学芸員あるいは私に連絡して下さればお見せすることが可能である。

外国産の入力ももうすぐ終わるので、私は次に最も標本量の多い「九重昆虫記」の地元九重町地蔵原産の鱗翅目の整理をしようと考えている。

今回の彦根附近産昆虫目録は、すでに何らかの同定ラベルがついていたのでそのラベルの和名・学名を入力した。同定ラベルがついていなかった標本は可能な限り新しい図鑑などで同定した。つまり今回提示した目録はあくまで参考資料として、誤同定種も含まれている可能性を承知の上で、できるだけ早く公開することを目的に作ったものである。したがってこの目録を全部あるいは部分的に引用したい人は、必ず私に相談して欲しい。相談を受けた時点で私自身も見たいと求められた標本を再同定するか、専門外でそれが難しい場合は八尋学芸員を通じて貸し出すことも考えたい。標本は利用してもらうために琵琶湖博物館におさめたものだから、私も全標本が有効に役立つことを願っている。

 

3.当時の昆虫相を復元する別の手立て

宮田コレクション以外にも50年前の彦根附近の昆虫相をもう少し詳しく復元する手掛かりが残されている。それは布藤美之氏が主宰・編集した志賀昆虫同好会の会誌「観察」である。私はその4巻から終刊までの会誌を持っている。編集者が森石雄氏に代わってからもしばらくその会誌は続いたが1962年に10巻で終刊したらしい。私は学生時代、彦根の我が家に来られた恩師の安藤裕筑波大学教授と一緒に森さんの家を訪ね所蔵標本の一部を拝見した。安藤先生は戦時中滋賀県八日市市にあった陸軍八日市飛行場の教官をしておられた。森さんとはその頃からの知己で、二人の間で戦時中の思い出話に花が咲いたのを覚えている。森さんが亡くなった後、当然、それらの標本は琵琶湖博物館に納まっているものと思っていた。膨大な標本は滋賀県の至宝だったのだが、今は散逸してしまったと聞いている。まだ目録はできていないが大津の膳所高校から琵琶湖博物館に寄贈された1955年頃採集された昆虫標本があり、もしかすると私の目録を追い越す種数が含まれているかもしれない。私は一部を見ただけだが半紙大の木箱に30箱ほどあるらしい。目を通した数箱は甲虫類ばかりだったが、標本が作られた膳所高校から琵琶湖博物館まで近距離を運ばれただけだから、何度も大移動した私の標本よりもはるかに保存状態が良好である。もし当時勤めていた生物教師が作ったものでなければ、私と同じころその高校に通っていた人が製作したものらしい。その昆虫少年はまだ健在だろうか。

彦根附近の昆虫相と大いに関係のある記事としてカメムシ、カミキリムシ、トンボ及びチョウの記録が残されている。それらを宮田目録に加えると1500種に達すると思われる。半世紀前の昆虫相は私の原点でありできるだけ復元したいと思う。

ところで彦根や大津では、今と50年前とどちらが、昆虫が多かっただろうか。おそらく多くの研究者は昔の方が多かったに違いないと言うかもしれない。

まだ日高敏隆さんが滋賀県立大学の学長だった頃、私は彦根に立ち寄り用事を済ませ彦根駅から電車に乗ると日高さんとばったり出会った。私は九州人だと思われていたから怪訝な顔をされたので、実は彦根の出身で学会の帰りに時々故郷を訪ねると話すと、滋賀県の山々は緑豊かですねと言われたので、「私の子供の頃は決してそうではなかった、里近くの山は禿山が多く、特に沢山城跡は痩せた赤松とツツジがちょろちょろ生えている禿山でしたよ」と説明したことがある。当時と比べると50年ぶりに見る故郷の山々は驚くほど緑が濃くなったと思う。

緑の濃さの程度が養える昆虫の多さと比例するならば、もしかすると現在の方が昆虫の種類が多いのではなかろうか。彦根の武奈町あたりに本拠を置いてじっくりと彦根の昆虫を調査してみたいと思う。